読書感想文:『消えたかぞく』課題図書です。

読書感想文
スポンサーリンク

 こんにちは。今日は読書感想文。青少年読書感想文全国コンクールの小学生高学年の部課題図書になっている『消えたかぞく』です。本屋さんで衝動買いしてしまった。

 今回は課題図書ですし一応夏休みの宿題対策として途中の見出しはやらずに本文だけダーッと書いてみます。もし読書感想文で悩んでる方がいれば少しご覧いただけると幸いです。では。

『消えたかぞく』を読んで

 何だか夏になりきらない日が続いていますが、いつ梅雨は明けるんだろう、いつ海で遊べるんだろう、そんなぼんやりとした将来を考える日が人生最後の日だった、という人もいるかもしれません。

 珍しく早起きをして、ああ、昨日は遊び疲れていつの間にか寝てしまったからか、と理想的な一日の始まりになった理由が前日の非理想的な終わり方だったことに気づき少し残念な気持ちになり、こんな毎日の繰り返しが当たり前のように感じられた瞬間が人生の最後の瞬間だった、という人もいるかもしれません。

 子供に将来のことを考えるように仕向けつつ、のびのび育ってほしい、と半ば都合のいい良き父親に憧れ、食事の時に真面目な話しかしないお父さんとして人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 子供の将来のために、とは思うものの、彼らのパワーの前に小言を言うので精一杯、日々家事をこなすことで精いっぱい、そんな精いっぱいな毎日がいつか終わるのだろうか、と考えているお母さんとして人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 将来の夢は何となくあるけれど、日々の暮らしにはリンクしていない、今日は今日で面白おかしく生きていきたい小学生として人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 将来、という言葉の意味も分からず、ただお父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃんと自分がいることがとても嬉しい赤ちゃんとして人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 将来、あの家族はどうなっていくのかと期待や不安を少し感じつつ、自分たちが歩んできた時間を思い出し、胸にじんわりと温かいものを感じながら見守るお隣のおじいちゃんおばあちゃんとして人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 将来に希望が持てず、早くこの人生が終わればいいと願いながら、それが楽なものだとしか考えていないため、準備もせずだらだらと時間を浪費する中で思いがけず人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 将来に希望しかなく、そのために直接必要なものを学ぶので精一杯、徐々に世間から浮いてきている自分に気づかずに、半ばその将来に足を突っ込んでいるにもかかわらず備えを続けて人生を終わらせた人もいるかもしれません。

 色々な人がいたことでしょう。色々な最期の瞬間があったことでしょう。

 その日は晴れていたと聞きます。

 見上げた空がいつも以上にまぶしくなった、そう思った人もいたかもしれません。

 うつむいた地面にまぶしい光が差しこんで、何だかやる気がわいてきた、そう思った人もいたかもしれません。

 戦時中とはいえいつものように仕事に出かけて、いつものように帰るつもりで今日の予定を考えていた人もいたかもしれません。

 朝だったと聞きます。

 色々な思いが、人生が、終わりました。何だかこみあげてくるものがあります。

 写真は不思議なもので、時間の一部を切り取ることが出来ます。この本はある家族の時間を僕に見せてくれました。

 昔の写真は今よりも価格が高かったせいかもしれませんが、撮ろうと思って撮るため被写体も何かしらポーズをとることが多いと思います。撮りたいと思う場面だからでしょう、写真は自然と笑顔のように、楽しそうなものが多い。

 人には嬉しい時も悲しい時もあるのですが、写真を見る限り、嬉しい時がかなり多く感じます。きっと、いやむしろ生きているうちは悲しい時、辛い時の方が多いと感じるのではないかと思いますが、それをあえて写真に残そうとする人はそう多くはないでしょう。

 写真はたいてい、嬉しいものです。それだけを積み上げて積み上げて、これが一瞬で奪われました、と来るのですからそのインパクトはかなり大きなものです。作者の強い意志を感じますが、それで構いません。怒っていい。

 この手の話になると『誰にも、人の命を奪う権利はない』という旨のお決まりのフレーズがありますが、僕はそういう話になるからこそ、戦争はしてはいけない、ということも考えます。

 原爆を落としたくて、というのは色々調べてみるととんでもないことに実は落としたかったような節があったように感じたのですが、それで人を殺すんだというところに思いが廻らなかった科学者だったり、命令で動かなくてはならないから・・・という軍人だったり、結局は一から十まで自分でやらないから、誰かのせいにして、やってしまう。

 一から十まで自分でやれば、そのどこかにある悪意だったり不満だったりを指摘することが出来るんでしょうけれど、みんなでやるからそれを上手に回避してしまうのではないでしょうか。

 そして終わった後で悪い部分は誰かのせい、更に突っ込んでしまえば戦争に負けた方のせいにする。勧善懲悪とは言いますが、これまた一から十まで自分でではないために『勧善懲悪』したりされている人は言い出した人とは違う人同士です。まったく理不尽です。もっともこの部分には仮に一対一から始まって、でも悪が強いから善が戦力を増やして、・・・ということがあるのかもしれせんが。

 などと述べたところでこれまた上っ面だけの聞いていて頭にくる感想です。この本を見てください、これが全てです。こんなに幸せそうな家族が全員死んだのです。かわいいだけの赤ちゃんも殺されたのです。

 これを『平和のため』とか『みなさんの尊い犠牲のおかげで』とかという言葉で丸めるのはこのご家族の側になって考えてみるとどうだったんでしょうか。平和のために自分と家族が犠牲になることに納得していたのでしょうか。

 僕は人間が出来ていないので、このご家族の犠牲のおかげで成り立った今日を生きていて、こんな戦争は良くない、と上から目線で述べていますが、逆に将来のために死んでくれと言われたら、はいとは言えません。仮にそうなったとして、『みなさんのおかげで~』と言われたら・・・。

 その将来が現在の世界なら、納得できないでしょう。

 では納得できる世界とはどのようなものなのでしょうか。ここで出てくるのが『写真』かもしれません。写真のような幸せそうな時間が理不尽に奪われたから怒っているのならば、逆に写真のような幸せそうな時間を得られるなら納得せざるを得ないのかもしれません。ただし、ここが大事だと思うのですが、写真の『ような』と書きましたが僕も含まれて、僕の『幸せ』です。

 僕が死ぬことで、僕が幸せな時間を得られるなら、というのは矛盾しています。だから実現できない現在ではとても受け入れられません。

 戦争。きっかけはあるのでしょうが、当人同士が解決できなくて規模が大きくなってきて、どうしようもなくなるのですから、やっぱりやってはいけません。戦争は始まってしまったら勝たなくてはなりません。だからみんながボロボロになるまで続いてしまう。

 終わった後は、勝者、敗者とも自分たちに都合よく結果をとらえて前に進む。ある意味では正しいとされるかもしれませんが、そのために犠牲になった人々がそれで納得するのでしょうか。前に進めなくされてしまった犠牲者たちは『死人に口なし』でも仕方ないのでしょうか。

 食物連鎖にせよ生存競争にせよ、生き物の死をもって生物は進化してきたとは思いますが、それを続けるには人間は文明的になりすぎたと思います。このあたりが進化の限界なのかもしれません。いいえ、この流れとは別の流れで進化しなくてはならないステージに来たというべきなのでしょう。

 今年もその日が過ぎました。戦争に対する感想はきれいにまとめることができませんでした。でもいつかきれいにまとめることができる日が来たら、戦争をせずとも争いを止めることが出来るようになるかもしれません。

ああ、難しい。

 稚拙な感想文でしたね。読書感想文『コンクール』に戦争物はだめよ。そういうのでまとまるものではないと思います。ゆがんだ美徳が生まれてしまう。うん、戦争について色々調べたり思いを巡らせたりすることはとても大切なことですが、特に若いみなさんはこういうのを美辞麗句で飾っちゃだめよ。ま、ちゃんと調べれば、表には裏があること、分かると思いますが。勝った国を誉めれば負けた国を責めることになる。ではお互いを讃えれば?だったらお互いを責めなさい。たくさん死んだんだ。たくさん殺したんだ。

 お墓参り、したいな。

コメント

スポンサーリンク
テキストのコピーはできません。
タイトルとURLをコピーしました