こんにちは。いよいよ読書感想文書くぞ。記念すべき第1回は『親鸞』。五木寛之さんの作品です。冊数にして6冊。大作です。読書感想文向けの本ではないですね。それに『親鸞』の感想文と言いつつ、メインが「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」です。すごく厳密に言うと読書感想文にならない、という残念な教員がいるかもしれません。
でも、少年少女気にするな!文章問題の『作者の言いたいこと』を書かされるんじゃないんだから、思った通りでいいんだよ。ケチつけてくるような教員、所詮は国語クイズ対策の仕事くらいしかできないやつだ。文学は表現だから進歩するんです。新しいものについてこれないやつはそこまででしか戦えないやつなのです。愚痴ってても時間がもったいない、行きましょう。
『親鸞を読んで』
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
一度読んでも気になりません。二度読めばおかしな気がしまます。三度読めば少し気が付きます。これは結構ひねった考え方だと思います。さて、文の意味ですが
善人ですら極楽往生を遂げているのだから悪人が極楽往生を遂げられないわけがない。
直訳すればこのような意味になると思われます。極楽往生とは死んで極楽に行くことだそうです。つまり、
善人ですら天国に行けるのだから、悪人が天国に行けないわけがない。
ということになります。少し考えるとそんなわけがないと思うのではないでしょうか。
悪人ですら天国に行けるのだから、善人が天国に行けないわけがない。
なら分かるのだけれど、と。ですが、この作品を読んでみて親鸞はそうは考えていなかったのではないだろうか、と思いました。まったく文字通りの意味です。善人ですら天国に行けるのだから悪人が天国に行けないわけがないのだと。
この一文の意味は
一言に仏教といっても実は宗派によって考え方が少しずつ違っているので、ここでは親鸞が開いた『浄土真宗』を指すこととしますが、仏教では阿弥陀様という仏様が人々を極楽へ連れて行ってくださるとされているそうです。そして、それは誰でもかれでもではないということなのだそうです。
ではどうしたら極楽に行けるのか。それを「ただただ阿弥陀様にお願いしなさい。念仏を唱えなさい。」としたのが浄土真宗だそうです。念仏は日本人ならどこかで聞いたことがあるであろう『ナンマンダブ。南無阿弥陀仏』のことです。ただひたすら念仏を唱えることで阿弥陀様に極楽に連れて行ってもらうのだそうです。
ちなみにこのひたすら念仏を唱えて極楽に連れて行ってもらうことを『他力本願』というそうです。教科書か資料集かでかすったような用語ですがよく使われている意味ではないですね。実際はそれほど楽ではなさそうな気がしました。やはり真面目に頑張らなくてはならないのですね。
ところで、冒頭の『善人なおもて~』についてです。親鸞はこの点についてかなりストイックだったようです。ただ、たまたま僕もこの点については昔考えたことがあったので親鸞の考えがいくらか飲み込めているのではないかと思いました。というか、答え合わせが出来た気がして自分ではすっきりです。では、『この点』について述べましょう。
さらに深く掘り下げます
僕らは普段善いことと悪いことを判断しながら様々暮らしているのだと思いますが、ところでその善いことと悪いことはどういう基準で誰が決めたことなのでしょうか。これについてはあるテレビ番組では人間に備わっている本能でおおよその基準が決まっているようなことを言っていましたが、ではそれは正しいのかよくよく考えてみたら、
ものごとの善い悪いは僕らが自分の基準で決めてつけているのではないでしょうか。
結局はそれは独りよがりの延長であって、絶対的に正しいのかと聞かれたら、とてもそうだとは言えないと思います。そして、親鸞によれば人間が善悪を判断することはできないのだそうです。じゃ、誰が出来るの?って、神様仏様ですよ、ってことです。
『善いこと』だと思ってそれをすること自体は善い事なのでしょうか。
僕の場合は結構あさましいんじゃないか、あざとく打算的じゃないか、つまり、ちっとも善人じゃないんじゃないのか、と悩んだことがありました。悩んで悩んで、「仮にそれが偽善だとして、それでも構わないでしょう」と割り切ることが出来たのですが。親鸞の考えはこれとはまた少し違っているかと思うのですが、今回の読書で一応の割り切りが出来るようになったのでした。読んで良かったですよ。
みんな大好き『作者の言いたいこと』ですが。
要するにまず前半で言おうとしていることは
「(人間が決める善い悪いは所詮人間基準の適当な基準です。)それにもかかわらず本来の方法である念仏を唱えることをせず、自分基準の良いとした事をしているから、程度の人間ですら極楽に行けるのならば、」
と、まあ、こうなるわけです。本当の善悪は~って議論が展開されていきそうですが、そういうことではないです。「ひたすらに念仏を唱えろっていうのにそれを疎かにして」って意味合いの方が強い。そして後半に続くのですが、こうなると思います。
「誰かに悪人と言われているような人であっても、ひたすら念仏を唱え阿弥陀様におすがりしている人が極楽に行けないわけがありません。」
と。つまり全体を訳し直すと
愚直に愚直に阿弥陀様にすがった者が極楽に行けるのです、そこにたかが人間基準の善人悪人の区別なんて関係ありません。
という言葉だったわけです。とはいえ、これ、初心者の読書感想文レベルの話ですから詳しくはそちらの道の専門家に聞いてください。ちなみに親鸞的な善悪の話はそれはそれで結構興味深いものですよ。いつかじっくり腰を据えて読んでみたいものです。
さて、この話ですが、実はもともと『歎異抄』という本に出てきます。教科書ではタイトルくらいしか出てきませんが、無人島に持っていくならこれ、ってくらいの本らしいです。サバイバルの本とかの方が良くない?って思ったりするんですが、とにかくそういうことらしいんで。
偉いお坊さんですが、本の中ではしっかり人間でした。
さて、『親鸞』にはそんな言葉を残したとされる偉人でありながらも僕らと同じように、紆余曲折を経て生きたのだ、という物語が描かれていて、さすがに僕よりもずっと苦労してきててお疲れ様です、とは思いますが、少しだけ身近になったのでした。
そういえば受験勉強レベルでも古文なんか読んでると時々人間臭い間抜けなお坊さんの話とかありますよね。今も昔も職業で人を差別するなってことでしょう。
それにしても長かった。終わり。
はい、こんな感じです。文字数カウントしてはいませんが、読書感想文の一つの攻め方は伝わったでしょうか。学生の皆さん、感想が膨らみすぎて本文がほとんど出てこなくてもいい。思い出話に花が咲いてしまってもいい。そういう思いをした、ってことが一つの立派な感想です。びびらず書きましょう。もし「本文を引用して」なんてことを言いだす教員がいたらその人は論文の書き過ぎで疲れてしまったんだろうと思います。ねぎらってあげましょうね。ほっとするものでも飲めって。 ^^) _旦~~
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